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2009年12月12日 (土)

車の懐メロ(6)スポーツカーの発売 

1950年代後半から次第に国産車の販売が開始され、60年代に入るとブルーバード 、コロナ等次々に新たな乗用車が発売されてきた。

驚くことに早くもこの時期にスポーツカーも次々に世に出てきている。ダットサンフェアレディー1500(SP310,1962)、ホンダS500(1963、後S600,800)、トヨタS800(1965)等である。

60年代早々に発売されたということは50年代後半から開発が進んでいたはずで、戦後の経済復興の途上でも既にスポーツカー作りに情熱を燃やした人達がいたわけである。

●ダットサンフェアレディー1500SP310)

1960年には初代と言える北米向けの車があったらしいが、国内ではこのフェアレディー1500が実質初代。

トラックのシャシーをベースに開発され、量感・全体のフォルムも綺麗で斬新なオープンのスポーツカーだった。当初の排気量1,500CCから1,600CC2,000CCと順次拡大され、1969年にフェアレディーZが発売されて道を譲った。

発売直ぐの1963年の第1回日本グランプリでクラス優勝したらしいが、私の記憶にあるのは第2回からだ。古い4気筒エンジンで60年代を生き抜いた豪快なスポーツカーで、北米他海外でも有名な存在。     

●ホンダS500600800 

ホンダのSとトヨタのSは対照的な存在。 

ホンダは当時2輪のみのメーカーで新たに4輪を手がけたのだが、最初からスポーツカーというのがホンダらしい。当初は360CC500CCの二つのエンジンでスタートしたが、最終的には500CCで発売となる。1年程で直ぐ600CC、また800CCへと順次排気量拡大された。ほぼ同時期にT360という同じエンジンを積んだトラック!が発売された。水冷4気筒DOHC8,500rpmエンジンとはホンダならではだが、ホンダの2輪販売店の店先で御神楽みたいな青いボディーに白くてでっかいHマークの車体をよく見かけた。     

ホンダは2輪で鍛えた高回転エンジンで、アルミの水冷直列4気筒DOHC、4連キャブのハイテクマシーン。チェーンドライブという後輪をシャフトではなくチェーンで駆動するという2輪メーカーならではの設計。当時でもそんなことが可能なのかと驚いた。本田宗一郎の常識破りの思想が全面に出ていた時代だ。

S500   531CC44馬力/8000rpm675kg

S600  606CC  57馬力/8500rpm695kg    

S800  791CC  70馬力/8000rpm755kg 

非常にコンパクトな車体ながらもハイテクの固まりのようなほれぼれさせるようなエンジンが美しかった。今でも所有欲をそそる車だ。

●トヨタスポーツ800    

高回転・高出力エンジンのホンダに対して、非力な空冷エンジンながら軽量・空力ボディーで対抗したのがトヨタスポーツ800。パブリカ用の空冷OHV2気筒800cc45馬力のエンジンながら、航空機技術を活用した水滴型軽量ボディー(580kg)で高い競争力を発揮した。

この2台はレースシーンでのライバルで、実力は伯仲していて互角に渡り合った。

故「浮谷東次郎」のトヨタS800と「生沢徹」のホンダS600の船橋サーキットでの戦いは伝説化している。話によると浮谷は生沢のスピンに巻き込まれ車体損傷し、大きく後退しながらも鬼神のごとき追い上げでついに生沢を捉え優勝してしまったという逸話で、後に練習中に事故死してしまった天才浮谷東次郎と共に語り継がれている。多くのレースシーンでこの2台の戦いが展開されたが、“エスロク、エスハチ”(ホンダ)と“ヨタハチ”(トヨタ)の愛称で呼ばれ、エスハチと共にやはり乗ってみたかった車。  

 その他、60年代半ばから次々にスポーツカー、スポーティーセダンが発売されてきた。

①いすゞベレットGT(1964)、②プリンススカイライン2000GT S54B1965)、③日産シルビア(1965)、④トヨタ2000GT(1965)、⑤マツダコスモスポーツ(1967)、⑥いすゞ117クーペ(1968

①ベレGは当時ユーミンの「コバルトアワー」の歌詞にも登場し、スカGと共に若者の憧れの車だった。

②スカGは第2回日本グランプリでの生沢がポルシェ904とのバトルで一躍有名に。その後のGTAGTBとして販売され伝説となる。 

③シルビアはフェアレディーの車台に、国内では知られていなかった独系アメリカ人アルブレヒトゲルツデザインのボディーで登場。削り取ったようなシャープな面が美しい気品ある車。

④トヨタがヤマハと共同で開発した本格的スポーツカー。イタリア等ヨーロッパのデザインに負けない美しさで、日本でもこんなものが出来るのかと驚いた。また、007シリーズ「007は二度死ぬ」(1967)にオープンボディの2000GTが起用された。女優若林映子(あきこ)、浜美枝がボンドガールとして出演。浜美枝はバスガール!からボンドガール!になった逸話の持ち主。これまた日本人もボンドガールになるのかと驚いた。今は環境・農業・食料問題等に造詣が深く、田舎暮らしの美しい熟年生活を送っている。

⑤コスモは事実上の世界初の実用ロータリーエンジン車、既存の車の形と異なる宇宙船のようなイメージの斬新さだった。

117クーペは彼の伊ジュージアーロのデザイン、フローリアンのクーペ版として開発されたが全く別物の美しさ。大学時代の先輩が所有していて何度か乗った記憶がある。   

この時代は「ベトナム戦争、首都高速開通、鈴鹿サーキット完成、ケネディ暗殺、公害問題、新幹線開通、東京オリンピック、霞ヶ関ビル完成、3億円事件、BEATLES来日、アポロ11月面着陸・・・」日本(世界も)が最も急激に発展した時期で、工業・経済・文化等あらゆる面で活気に溢れていた。車に興味を持たない現代の若者世代に比較して、この時期に青春時代を過ごした我々には懐かしい時代だが、年齢を感じながらも我家の息子達も含めこれからの若者世代がどうなるのかが心配だ。

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車の懐メロ(5)我家の車歴Ⅱ

1960年代後半からの動き

1960年代後半に入ると更に進展を遂げ、サニーB10(初代,1966)、カローラKE10(初代,1966)が発売され、BC戦争に続きCS戦争とも言われ、本格的な大衆車時代を迎える。

我家では発売直後の⑥ダットサンサニーB10の新車を購入したが、当時この新車は名前募集のキャンペーンをティーザー広告と新車プレゼントで大々的に行っていて、こんな広告の仕方もあるのかと感心したものだ。しかし、直後にトヨタがカローラを「+100CCの余裕」で発売、真っ向からぶつけるという激烈な販売作戦に出て次第にカローラの優位に進んだ。子供ながらもサニーはガラス面積が大きく直線的なスタイルで軽快な印象だったが、直後のカローラは曲線を巧みに使い量感のあるデザインで一クラス上の印象だった。折り紙細工と工芸品(大袈裟)的な差を感じた。後にサニーは1,200ccエンジン車にモデルチェンジし「隣の車が小さく見えます」CMで対抗した。

我家のサニーは明るい雰囲気で、前席のリクライニングシートも印象的だったが、2年ぐらいで買い換えてしまったような気がする。

その後⑦マツダファミリアに買換えた。初代はエッジがフレアしたフラットデッキで軽快な印象だったが、2代目は何故か太い葉巻のような重そうなデザインだった。頑丈そうに見えたが四角いヘッドライトと共に昔に戻ったようだった。4速フロアシフトのカッチリした印象は記憶に残っている。

前後関係が曖昧だが、次に⑧トヨペットコロナRT40の中古車がやってきた。平行四辺形みたいなカッチリした車で、自身もかなり運転したが重い車両でスピードがつくと結構よく走った。内装等造りはトヨタらしいしっかりしたものだった。

しばらく親父はファミリーサルーンを乗り継いでいたが、当時のスカGブームと上級志向に煽られ?ある日私に「クラウンとスカイラインはどっちが上だ?」の質問を。「なるほど一般ドライバーは排気量の大小だけでクラスを判断するのか」といっぱしのカーマニアを気取っていた身で妙に納得したものだ。勿論「排気量は同じでも・・・」と一通りのご解説を行った。結果、我家にケンメリの4代目スカG4ドアがやってきた。

この頃はスカGブームもピークで、美瑛のケンメリの木をバックにバズの歌が流れるCMが連日流れていた。肝心なスカGはというと、既にカーマニアの間では「大きく重く眠たいL20エンジン」は定説で、実際車体も重く、L20はストレート6とは思えない普通のエンジンだった。巷で言われるようなGTカーのイメージではなく、コロナRT40ほどでは無いにしても、軽快な走行とは言えず重たい印象だった。多分にGTレースの勝利とCMで作られた姿だろう。しかし、販売は好調で後にライバルトヨタにマークⅡを発売させることになる。

 その後は親父も年齢を重ねると共に次第に脂も抜け、コンパクトなサニー等に回帰していった。日本車もその後1970年代は米マスキー法に端を発する排ガス規制の壁にぶちあたり、ハイパワー競争から排ガス規制に翻弄されることになる。

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2009年12月 7日 (月)

車の懐メロ(4)我家の車歴 

我家の車歴

1968年の軽免許取得と「ダイハツフェローSS」に始まる運転歴は40年を超えた。

この間を振り返ると子供時代から社会人までの間が懐かしい「車の懐メロ」時代だ。

思えば自身の車好きは親父の影響が大きいと思う。記憶を辿ると我家(当時は山形県)に車があったのは小学校2年生ぐらいの時からだったと思う(それ以前の記憶が曖昧)。

親父は昔から新し物好きで、白黒テレビが我家に来たのは19578年ではないかと思う。娯楽の少ない時代で、テレビはまだ珍しかったので我家に大勢人が集まり相撲とかプロレスを見ていた。相撲は「栃錦、若乃花(初代)」の栃若時代、プロレスは「力道山、ルー・テーズ」らの全盛時代だった。 

車は1959年頃からあったと思うが、親父は新旧の中古車を頻繁に換えて乗っていた。

初めの乗物体験は親父の勤務先のヤマハ125CCバイク、後部座席で振り落とされないように必死でバーに掴まってあちこち出かけた記憶がある。この辺が車との係わり合いの原点かもしれない。

記憶にある我が実家の車歴は次のとおり。( )内は発売年

①ダットサン211(だるま型、1960

②トヨペットクラウンRS20?(観音開き、1959)  

③パブリカUP10(初代、1961

④ブルーバードP3121963) 

⑤マツダキャロル600(クリフカット、1962) 

⑥ダットサンサニーB10(初代、1966)新車  

⑦マツダファミリア(2代目丸型、1968)新車 

⑧トヨペットコロナRT40(角型、1964

⑨日産スカイライン2000GT C110(4代目ケンメリ、1972)新車

その他いろいろあったかも知れないが記憶にあるのは上記程度。 

①ダットサン~⑤キャロルと⑧コロナは中古車で古さはばらばら、短期間に乗り換えていた。①~④あたりは半年~1年ぐらいしか乗っていなかったように思う。

一見して車種に脈絡が無いのは親父が決してエンスーではなく、未体験の車生活で興味津々、新しいのにいろいろ乗ってみたかったのだろう。 

しかし、こうした欲求も次第に治まり⑥以降は新車も買うようになり、⑧中古コロナは丈夫で結構長く乗っていた。      

急速な自動車産業の進展

1950年代から1960年代前半の国産車黎明期から1960年代後半への技術の進歩は著しい。 

50年代は国産各社が海外からのライセンス生産で、日産は英オースチンA501955~60)、日野はルノー4CV1953~63)等を生産していた。国産化されたものも一様に海外の技術に倣った戦後を感じさせるものが多い。自家用は少なくルノー4CVは多くはTAXIだったかもしれない。 

我家の車歴でも1950年代に開発の①ダットサン(だるま)、②クラウン(観音開き)はずんぐり・鈍重なイメージで戦後を感じさせる。当時乗っていた中古車はかなり古く、道路事情も悪く未舗装路が多かったため、同乗していてもドカドカと足回りが穴ぼこに落ちて振り回された記憶がある。

しかし、1960年代半ば頃に発表されてきたブルーバードP312(1963) 、コロナRT40(1964)等は大きく進歩し、ブルーバード411(1965)の発表からダットサン・ブルーバードVSトヨペットコロナのBC戦争が始まった。

それ以前の冴えないデザインから一気に外国車に見劣りしないものとなり、子供心にも丸くて黒い鈍重な車から一気に明るい華やかな時代への変化を感じた。ブルーバード411は伊ピニンファリーナ、1963年のダイハツ(昔は小型乗用車を生産)コンパーノは伊ヴィニヤーレ、1964年の日野(同じく乗用車を生産)コンテッサ1300は伊ミケロッティと各々ヨーロッパの大手デザインオフィスの作品だった。

時代を感じさせる出来事に、日産がブルーバード411で顧客からの不人気を理由にトランクルームの下降ラインを引き上げたが、子供ながらにせっかくのピニンファリーナのバランスのとれたカーブを何故?って思った。そしてコンテッサ1300クーペは従来の堅いイメージを打ち破る流麗なデザインで憧れの車だった。

この時代、日本経済の戦後の復興、重工業産業の進展から大幅な所得水準の伸び、そして1964年の東京オリンピック開催に向けた高速道路の整備等も加わり、一気にモータリゼーションへの道を突き進む。といっても当時は山形県酒田市の田舎に住んでいたので都会の変貌を知る由もないのだが。

当時、小学校の同級生だった老舗の菓子舗「小松屋」の息子が新発売のクラウンS401962)カスタム(マスターと言っていた?)を見せてくれながら、ライトバンとは違うと強調していた記憶がある。http://www3.ic-net.or.jp/~komatsu/(小松屋)

フラットデッキのそれは従来の丸っこいデザインから欧米を感じさせるスマートなものだった。

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車の懐メロ(3)「軽自動車2」

1960年前後の軽自動車

私が記憶している初期の軽自動車は1950年代後期から1960年代前半頃だ。

●ダイハツミゼット(1957)、当時、大村崑のCM「これもミゼット、あれもミゼット・・?」(だったと思うが)をよく見た記憶がある。TVCMが威力を発揮した時代だ。 

●スバル3601958)、「戦闘機「隼」を作っていた飛行機会社が戦後航空機技術を使って造った名作、卵の形は軽くて丈夫なのだ」という話をよく聞かされた記憶がある。

後に免許教習の途中に自動車試験場で一発試験トライアルをしたが、有名なトーションバースプリングはフロント上下動ぶわぶわなのと、フロアシフト(教習所のミニカはコラム)の違いで教習所のミニカとは全くの別物だった。結果、見事不合格で良い印象が無い。

●スズライトTL1959)、昔住んでいた山形県酒田市で斜め向かいの「トーハツモータース?」でよく見かけた、他が丸い車が多い中、四角くて地味な印象の車だった。店の前には陸王、メグロなんかの大型バイクもあったと思う。

●マツダR360クーペ(1960)、マツダはオート三輪が沢山走っていてよく知られたメーカーだったが、局面ガラスのコンパクトな四輪車を発売し斬新なイメージだった。子供ながらこんな小さな車に乗れるのかな?と思った。

●コニーグッピー(1961)、何故か記憶にあるのだが、愛知機械工業(後に日産自動車系列)というマイナーな感じの会社から丸くて小さい車が売られていた。名前が印象的だったからかも。  

1960年代の軽自動車

1960年代の初期の軽自動車に比較して格段に造り・性能が向上し、現実的に乗る対象として見ていた。

●マツダキャロル(19621970)発売はR360クーペの2年後らしいが、後に我家に小型車規格のキャロル600が1年ぐらいあった。キャロルはそれまでの軽に比較し、オールアルミの4サイクルOHV4気筒のエンジンや、クリフカット(斜めに逆反り)のリアウィンドー等特徴ある車だったが室内が狭く、小型車レベルの凝りすぎの造りのため重くあまり売れていないようだった。 

●三菱ミニカ(19621967)マツダキャロルと同様に3BOXのクリフカットだったが、FRで室内は少し広かったと思う。マツダやホンダのような先進的・大胆な技術は投入されなかったが丈夫で軽量。自身が軽免許取得時の教習車で運転し易かった。  

1960後半~70年代の軽自動車

●スズキフロンテ(19671970)初代のFFスズライトから180度転換し、RR、2ストローク空冷3気筒25馬力で登場。後にホンダN360に対抗して36馬力のSS、更にSSSまで登場。バイク屋さん同士で軽ハイパワー戦争の一画。  

●ホンダN36019671972)当時衝撃的な登場であった。それまで2ストロークエンジンで2025馬力程度が軽の常識の中、OHC空冷4ストローク31馬力/8,500rpm という脅威的なパワーのエンジン、31万円という低価格とモダンなイメージで一気に市場を席巻した。軽ハイパワー戦争の発端となる。  

●ダイハツフェロー(19661970FRで水冷2ストローク2気筒エンジン搭載。プリズムカットの名称で箱型のコーナーを丸め、リアウィンドーは垂直の3BOX型。四輪独立懸架だったが、ライバルに比して競争力が弱かった。当時はトヨタグループ入りしていない地味な関西の自動車メーカー。  

最初の愛車「ダイハツフェローSS

軽免許取得の1968年突然我家では2台目の車を買うという話になった。理由の一つは我家では遠方に家を建て、高校への通学が難しくなったこと、もう一つは父親の仕事の関係でダイハツの販売会社から車を購入せざるを得ない?状況が重なったらしい。

当時の私もええ~~っマジ~(とは言わない)って感じで、高校生の分際で車はないだろう!と思ったのだが、そこは根っからの車好き、渡りに船とちゃっかり話しに乗っかっちゃったのである。

結果、我家に2代目の車が登場。ただし、当時は「ホンダN360」が話題の中心で、本音はこれが欲しかったのだが、上記の親父の関係であっさり「ダイハツフェローSS」と相成った次第。 

当時は衝撃的なN360の登場以来、各社の対抗ハイパワー軽が次々に登場。 

二輪ライバルの「スズキフロンテSS」「三菱ミニカスキッパー」スバルまでが「スバルヤング(!)SS」を発売し、我家の「ダイハツフェローSS」もこの一員だった。

各車とも31~38馬力という従来のレベルに+10馬力程度をむりやりパワーアップしたのである。また、当時の軽はほとんどが2ストロークエンジンで、潤滑用のオイルタンクを持っていて排気管から混合気の青っぽい白煙を吐いていた。これに対しN3604ストロークのため臭う白煙が無く、デザインも英「AUSTIN MINI」っぽくてモダンなイメージだった。ただ、途中から車両転倒問題が騒がれ、一時の人気が下火になりモデルチェンジに至った。 

我が「ダイハツフェローSS」は丈夫だったが、ホンダに比較すると地味だった。内装は16歳の目でも殺風景で安手な印象だったが、走りはまあまあだったと思う。ハイチューンのため赤城山からの下りでプラグがかぶって、時速15kmの1気筒走行になったことがあった。勿論当時は何が起こったかは理解できなかった。我が愛車として3年間充分活躍してくれたのだが大学進学で東京に下宿することとなり、後に我家を離れたと思う。

(写真:トヨタ博物館他出典)

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2009年11月28日 (土)

車の懐メロ(2)「軽自動車」

軽自動車の歴史

戦後の激動期に「軽自動車」は規格制定され、多くの荒波に揉まれながら現在まで生き延びてきた。

「戦後激動期の年表」

1945年 敗戦、GHQトラック生産許可 

1948年 GHQ貿易業者入国制限解除 

1949年 GHQ乗用車生産制限解除、「軽自動車」規格が制定

1950年 朝鮮戦争特需、「自動車工業不要論」論議

1951年 サンフランシスコ講和条約・日米安保条約調印

1952年「軽自動車免許」制定、(私生まれる)

1954年 第一回全日本自動車ショー開催(日比谷公園)

1955年 スズライトSF発売

1958年 スバル360発売

この時代の変遷は上記のとおりだが、敗戦後の日本が如何に急速に経済発展し、自動車産業が立ち上がったかが解る。ここで不思議な因縁を感じるのはこの激動期に軽自動車規格、軽自動車免許が制定され、そして自身が軽免許制定の年に生まれ(歳がばれる)、後に廃止される最後の年に免許取得し、ここから自身の車との長いつきあいが始まったからだ。

 1949年の規格制定から1950年、1951年と改定され1955年に軽自動車規格が「長さ3.0m.幅1.3m.高さ2.0m.排気量 360cc」と定められた。 

その後更に1976年、1990年、1998年と順次規格が拡大され、現行の「長さ3.4m.幅1.48m.高さH 2.0m.排気量 660cc」となっている。 

一方1955年、時の通産省は「国民車構想」を発表したが、当時の技術水準に対しあまりの要求基準の高さ?で、完成された車は無くこの構想は流れてしまった。この要求基準は下記のとおりだが、現在の技術でも結構難しいかもしれない。

「国民車構想」要求基準     

①乗車定員が4人分または2+100kgの荷物が積める

②車体重量が400kg程度

③排気量が350600cc程度

60km/h定地走行燃費がリッター当たり30km以上

⑤最高速度が100km/h以上

⑥月産2000台が可能

⑦販売価格が25万円以内(1955年当時の大卒初任給13000円ぐらいなので、現在の  価格380万円程度!)

⑧大がかりな修理を必要とせずに、積算走行距離10万キロメートルを達成する耐久性

価格の380万円は別として、重量400kg、排気量350600cc、最高速度100km/h以上、燃費が30km/ℓ以上を実現しようとすると、今ならアルミ、炭素繊維あたりで超軽量化したPRIUS並み燃費のエコカーになり、現代のシティコミューターとして通用するかもしれない。但し、価格はこの半分ぐらいが現実的だろうが。

結局、この国民車構想とは別に各社の開発が進み、次第に「軽自動車」規格に合わせた製品が世に出てきたのである。(写真:トヨタ博物館出典)

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車の懐メロ(1)「軽免許」

自動車評論家「徳大寺有恒」氏が新著「間違いじゃなかったクルマ選び」刊行に際して、

Web CG対談で“ヒストリックカーは「懐メロ」”と表現していた。

免許の歴史

氏が17歳のとき初めて運転した1955年の初代「クラウンRS」について触れている。お歳はたぶん一回り以上の大先輩で、車に関しては足元にも及ばないが、一素人車ファンながらも何か似たような懐かしさも覚えて、自分も懐メロかなぁ? な~~んて思ってしまった。  

 と言うのは、氏の運転歴はたぶん55年ぐらいかと推測されるが、1955年のクラウンに17歳で乗ったというのは当時小型車を運転できる「小型免許」が16歳で取得できたからである。そういう私も時代が進んで1968年に「軽自動車免許」を16歳で取得し、気が付けば運転歴は40年を超えてしまった。

調べてみると運転免許は1919年の「自動車取締(!)令」に始まり、1933年、1948年、以降数年おきに改正されてきている。徳大寺氏の免許は1933年に定められた「普通免許、特殊免許、小型免許」のうちの「小型免許」で、16歳から取得可能で当時は試験が無く申請で取得できたらしい。この16歳からというのは結構長く続き、私が取得した1968年まで続いたのである。

「軽自動車免許」は1952年に従来の「軽自動二輪車免許」を「軽自動車免許」と改められ、年齢16歳からは継続された。これは結局1952年(昭和27年)~1968年(昭和43年)の間存在した。1968年「軽自動車免許」は「普通自動車免許」に統合され、同時に年齢は18歳からとなった。但し、審査を受けないと軽自動車(当時は360cc)に限るとされた。後に18歳に達したと同時に審査(教習)を受けて「普通自動車免許」に変更したのは言うまでもない。

私が「軽自動車免許」を取得したのは廃止が決められた1968年で、取得期限はこの年の8月末。この年16歳になったばかりの私は夏休みに教習所通いをしたのだが、実は賭けであった。夏休みということは廃止まで残り1ヶ月なので、仮免はじめ「全ての試験を一回で通過しないと金が無駄になるがいいか?」からのスタートだったのである。

結果は幸い合格だったが危うい挑戦。まあ本人は意外に淡々としていたのだが。

ところで、当時、教官が群馬弁で「おめんち百姓か?」との言葉が懐かしい。やはり16歳で免許取得するというのは、農家や商店の息子達が家業を手伝う必要がある場合が一般的で、サラリーマン世帯では珍しいほうだったと思う。内実は二輪免許取得を目論んでいたが、親がお決まりの二輪は危険との判断で四輪になっただけなのだが。

ましてや、徳大寺氏の「小型免許」の時代は極めて先進的な例で、車自体がまだまだ珍しい時代だったろうと思う。 

 また、長年の運転歴の名残が現在の免許証にある。保有期間が長いため旧普通免許は自動的に中型車も運転可能になっているのだ。但し、「中型車は中型車(8t)に限る」(車両総重量8,000kg、最大積載量3,000kg、乗車定員10人以下)の条件が付くのだが。 

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2009年11月22日 (日)

C4PICASSOスタートとXANTIAとの別れ

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11月14日CITROENC4PICASSO」が遥々スペインから海を渡り、我家の一員に。

しかし、同時に長年我が家に貢献してくれた「XANTIA」との寂しい別れでもある。

XANTIA BREAK97」とは12年半の長きに亘る共同生活。当初は前車ハイエースキャンパーに代わり子供達と大量の荷物を積んでオートキャンプ場を駆け巡り、この1年半は毎週末東京~沼津間を無事に我が身を運んでくれた。最後の3ヶ月は触媒の内部破損でガラガラ音がけたたましかったが、東名走行は以前と変わらぬ巡航ぶり。そして、最後の2日間は何故かほとんど音なしに、健気な最後のお努めは涙物。感謝・感謝だ。

 当日販売店に到着すると何と他にXANTIAが2台もいて、我がXANと合せ2台のBREAK、1台のセダンと3台が勢揃い。そしてこれが全て同じ年式、且つ同色のヴェールヴェガ(グリーン)。我がXANの最後を見送ってくれているよう。    

C4PICASSO第一印象

電子満載

一方、12年半の時代の流れは大きく、内外装・エンジン等々いずれにも電子満載。

最初の違和感は運転席左側に何も無いこと。XANのようなATセレクター、サイドブレーキレバーが無いので気持ち悪い、というか不安。ブレーキはエレクトリックパーキングブレーキだからレバーは無く、駐車時自動作動、手動はダッシュのスイッチで。ATセレクターはコラムにある、彼のDSに倣った10cmぐらいのか細いレバーだ。従って、座席左側には操作系はなく左手は空間をさまよう。

 次の変化(難関)は液晶ディスプレイのメーターとセンターフィックスステアリングの各種設定だ。まるでPC・携帯・ゲーム機のよう、ゲーム機世代ならまだしも親父世代はやや苦しい。取説を読むと理解はできるが、走行中に瞬時に操作できるには時間が必要だ。 

EGSとパドルシフト

6速EGSはセミATと言っても基本はマニュアルギアボックス、繋がりには慣れを要する。AAuto)ポジションで、トルコンATの感覚でアクセルを踏み続けるとクラッチの作動時に一瞬大きく息継ぎし、そのままアクセルを踏んでいるとターボ炸裂、ぐわっと加速する。特に3速までの変速は要注意、1~2速のギア比が低いので短時間に変速が続き、スピードも伸びず後続車両に煽られそう。冷静に考えればMTの要領で一呼吸おけばギクシャク感は避けられるし、Aポジションでもパドルシフトでアップダウンが可能で、変速の反応は早くショックも少ない。スムーズな走行には積極的にパドルシフトするに限る。

ハイドロとは違う柔らかさ

第一印象はふわん(ぐわん?)と柔らか「大型観光バス」。全体的にゆったりの加速・変速のリズムのせいか、運転もバスっぽくなる。ブレーキは軽く踏んでも強力で、不用意に踏むと急制動し前のめりになる。リアのエアサスの効果も助長。繊細なタッチを要求されるブレーキは疲れの元、国内道路事情に合わせ少し鈍感に調整したい。

舗装路ではターボの威力でシューンと加速し、巡航は路面の凹凸とは隔絶し、柔らか滑らかなマシュマロ感?。ハイドロの間接的に路面を滑るような柔らかさ・ダンピングとも違う。

足元は結構重たいものを感じるが、ドタバタ感はなく柔らかくトレースする。ただ、悪路では時折ゴトっと重い足回りが上下する感じがある。しかし、同じ荒れた舗装路でトヨタエスティマに乗ったら、間接的だが終始ボコボコしていて、PICASSOの繊細な柔らかさが実感される。 

 ハンドリング

大柄で上屋が少しゆらりと揺れるが、意外にワインディングロードでのハンドリングは悪くない。コーナーで大きなマスが突き進んで行っても、215mmのタイヤサイズや広いトレッドのせいか結構すんなり駆け抜ける。ただ、パワステは滑らかでスムーズなのだが、終始一定の重さで路面の反力が感じられないので不安がある。

まあ、このボディーであまり飛ばそうとは思わないし、風が強い時はやはり1BOXらしく影響を受け易く、ステアリングの修正が必要。

 新生エンジン

1.6ℓエンジンだがターボの威力は大きく、大柄な車体にも係わらず低速からかなり力強い加速が可能。パワー感はノンターボの2.53.0ℓぐらいの感じだが、内部空間が大きいので結構大きな車に乗った感じだ。音は大変静かで、加速時はシューンとターボの音がかすかに聞こえ心地良い。フリクションの少ない回転のスムーズさはBMWの力か? 

EGSとの相性を実感できるのはこれから、今は繊細なアクセルワークを心がけるものの、スムーズな変速と省エネを両立できるまではまだまだだ。

ノンハイドロでもオートルートの高速巡航を基本とするような設定はCITROEN共通らしい。短期間の運転だが、慣れると楽チンの旦那運転になりそうな気配が垣間見える。 

しばらくはセンターフィックスの各種操作・設定と6EGSの操作習得に努める日々。

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2009年10月24日 (土)

多摩サイ回復走行

200910111601242009101116014620091011160034                                    8月末の突然の腰痛は思いの他ひどく、一ヶ月あまりの投薬と貼り薬、腰痛体操の日々。

最後には薬の副作用と疑われる症状もあり投薬中止、ようやく概ね回復に至る。

(腰痛対策の筋弛緩剤は○○炎、湿布薬・モーラステープ等の一部成分は光線過敏症、胃腸障害、筋肉のやせ等の副作用を誘発する場合があるらしい)

直るとすぐ動き出す多摩サイの虫。途中、一度「浅川」沿いのコースをMTBでゆっくり

20km程流した時は若干症状が見られたものの特に支障なし。

 ほぼ回復と思われたので、先日久し振りに多摩サイを敢行。但し、前傾姿勢に不安があったのでMTBで。いつものコースの両端の部分を省き約22km、快晴の土手を久々に走行。爽快!!やはり人間には屋外での運動が必要だ。

この2ヶ月近く通常走行(42km)していなかったので筋力が付いていかない。大事をとってMTBにしたのもあるが、追い風でも時速30km未満!体は使わないと衰えは早い。

通常、走行後は代謝が上がるのと筋肉を酷使?するので当日夜はやや寝苦しくなるのだが、今回は翌日に発生!やばい!2ヶ月のブランクは想像以上の衰え。

今後のペース復活が懸念される・・・・      

PS:今日、通常42km走行を敢行、痛みも無し。今現在、代謝は上昇、今夜以降が問題だ。 

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2009年10月17日 (土)

XANTIAの後釜決定

1024_c4picasso1_2Zooma666b64336b4c09ec556b676ec435d1  我がCITROEN XANTIA BREAK‘97モデルは、あと2年は乗るつもりで去年5回目の車検を受けた。だが、寄る年波には勝てず外観は日焼けで緑から白に変身中(ルーフ、ボンネットは2年前に再塗装)、ハイトコレクターのオイル漏れ、高圧ポンプの昇圧遅れ、ダッシュ・ボディー各部からの異音・軋み、タイヤの磨耗、樹脂類の破損・・・に加え、ついに触媒の内部破損でガラガラ音が。

ただ、見栄え、ガラガラ音等を除けば通常の走行は概ね順調で、東名の走行は相変わらず快適な巡航ぶり。とは言うものの家族からの不信感は払拭できず遠出はしたくないとの御達し。というのも、購入1年目に突然エンジンルームの燃料ホースの亀裂からガソリンが噴出、エンジンルームからウィンドウスクリーンまで霧噴射と室内ガソリン臭充満という大失態を演じてしまった。ただ、その後細かなトラブルはあれど概ね順調に月日をこなし、ついに13年目に突入した次第。

この13年は我家の息子達の成長と共にあり、それまで乗っていたVANTECH HIACEキャンパーの後を継ぎ、充分にオートキャンプをこなしたし、荷室にロードバイク・MTBを複数積んで遠地の走行もこなし、その実用性、耐久性を充分に発揮した。     

ただ、近年の老朽化と毎週末東名を往復する身を案じて?買換えも止む無しの家族合意に至った。

東京以外の(都下には販売店なし)CITROEN販売店を巡り、家族構成、経済情勢・・・あれこれ考えながらXANTIAの後釜探しを約2ヶ月。 

当初はこの不況下、国産車「MAZDAアテンザスポーツワゴン」「HONDAアコードツアラー」「オデッセイ」「SUBARUレガシーツーリングワゴン」等を検討。ただ国産車も意外に価格が高く、グレードによっては300万円台半ばからアコードなどは400万!を越えるものもある。

更に、長年のハイドロCITROENに慣れ(させられ)た体は他を受け付けず?「C5ツアラー」「C4PICASSO」も検討。    

C5ツアラー」はこれまでのモデルに比較して独BMW風(賛否はあるが)デザインと品質向上、「ハイドラクティブⅢ+」サスに惹かれたが“デカイ”(XANTIAの二回り大?)。それと動力系が旧来の2.0ℓエンジンと「AL-4ATのままで、いずれ国内版もTDI化やC4と同じく「1.6ℓターボ」+6速セミATEGS」の可能性もありそう?

400万円超の価格は乗り出し500万に迫り、環境離れしたガソリン3ℓエンジンもないだろうし、JAVEL2TDIは魅力的だが更に高額・・・止む無く断念。 

一方、ちょっと興味のあったC4PICASSOは良く考えると多人数の我家に向いており、義母が東京に出てくる際は7人乗りが威力を発揮しそう。XANの前がHIACEキャンパーだったこともあり息子達には結構好評らしい。

丁度、今春BMWと共同開発の1.6ℓターボエンジンに変わり、6速EGSと合わせると意外に理想的な組み合わせか。CITROENは伝統的にハイドロサスや斬新なデザインに比較して動力系が地味だが、これで一気に動力系も表舞台へ。

「直噴ターボ」「セミAT」「パドルシフト」の組み合わせ、大胆な「パノラミックウィンドー」、DS風「ATシフター」、「センターフィックスステアリング」「リアエアサス」等々CITROEN臭満載、国産の応接間風1BOXとは一線を画す。 

CITRO虫?を刺激され、「直噴ターボ+6EGS」と「ノン灰泥CITROEN」への興味を抑え切れず、一転「フツーじゃない1BOX」のC4PICASSO選択と相成った。 

神奈川の某販売会社経由で10月後半着のフランス(スペイン?)からの船便を待つ日々。 

悩みはこの不況下での今後の経済的対策・・・それとXANTIA最終日のドナドナ。  

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2009年10月 9日 (金)

XANTIA後釜探しと「小林家のideal pair」

P1010664P1010666Xantia_1w11Zoom0000016565_add_0071    我が老朽化する「CITROEN XANTIA ブレーク」‘97モデルの後釜を捜す中、CGCAR GRAPHIC)誌4月号にCITROEN C4PICASSOと「芳醇なコンパクトカー」の記事が。PICASSOの写真はカタログより美しく、全体フォルムを生かす角度から、次頁にはDSファミリアールの姿も。

「芳醇なコンパクトカー」

PICASSOの後に「小林家のideal pair」の記事があり、敬愛する元編集長「小林彰太郎」氏の愛車が載っている。コレクション以外は「CITROEN XANTIA SX」と「LANCIA MUSA マルチジェット1.3D.F.N」の2台フリート。

改めてこの記事を読み、長い自動車生活を振り返ると妙に共感させられるものがある。

氏の論旨は普段の足は実用車に徹して合理性で選択し、趣味性を求めないという冷徹なまでの姿勢で、結果の2車は確かにクールな選択。

ただ、数多の車を乗り継いだ氏の深い経験の選択に、素人ながらも時間だけは長く乗ると志向が似てくるのだろうか。氏の運転歴には比べようもないが、自身も軽自動車免許を16歳で取得以来40年+となった。

普通のサラリーマンの身からは氏のような多数フリート体制は不可能だが、XANの次の次は夫婦二人であろうから「LANCIA  YPSILON」のようなコンパクトカーかと思っていたのと符合する。  

自身は所謂CITROENフリークではなく、XANTIAも初めての購入だったが、確かに実用性、且つ趣味性を満たす数少ない存在だと思う。その前のキット内装のハイエースキャンパーから乗換えても充分オートキャンプを楽しませてくれたし、ロードバイク走行時にも内部に2台搭載が可能な実用性も持つ。氏の「冷凍保存」した1台が欲しいぐらいとの想いも解る。事実、私も横浜で見つけたXANTIA BREAK最後期モデルとIRAN製(SAIPA社)の新車にはちょっと興味を惹かれた。 

年齢と共に安全性も強く意識するようになると、ALFAの情熱も良いが、CITROENの低出力をカバーする巡航テクニックは、結果速度の抑制が効き、ハイドロの足と共に自然と心の抑制にも効く。

一方、「LANCIA YPSILON(MUSA)」は「芳醇のコンパクトカー」に相応しい存在。氏の着目するTDIの完成度、経済性もさることながら、特徴ある盾グリル、モダンだが伝統を感じさせるデザイン、高い質感の内装、ゼニアの色使い等をコンパクトに凝縮した姿は単なる車好きをも充分惹きつける存在。イタリアンデザインの伝統の落着きと静かな情熱に高い走行性能も併せ持つようだ。

いずれも特徴的なのは見た瞬間にデザイン性・感性で引き込み、後にその国の文化・歴史をもじわりと感じさせることだ。

(CAR GRAPHIC誌'10/1号投稿記事欄掲載)

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